誰が三井を生かしたか

まえおき︰

前記事のふせったーにあげてた文章の続きとして書いてたましたが、主題がズレたので記事を分けました。

前の記事↓

potatochance.hatenablog.com

 

 

三井のことをグレたっていうのは簡単だけど、あれはつまりうつ状態だったんだと思うと、とてもじゃないが笑い話ではない。

三井が谷沢と同じ道を辿った可能性だって十分ある。

安西先生はどうして三井に何もしてあげられなかったんだろうなと思うけど、安西先生もまた、消えない過去の後悔の中に生きてる人で、他人を救う力はなくて、傷ついた大人であり、未熟な指導者だった。

だからって、って思うけど。うつ状態の子どもに適切なケアのできる大人がそうそういないのは、現実的にそうではある。待つしかないこともあるし、部活の指導者が体育館に来ない子に手出しできることがあまりないのも、仕方なくはある。

三井の家族だって、あんなことをした三井を部活に復帰させて支援できるような親はいい親だろうとか想像するのは簡単だけど、その「いい親」が、追い詰められた子どもを助けることができたか?というと、できなかったからこうなったのだし。

原作はキャラクターの家庭環境についてあまり触れないから、その制約の限界とも言えるかもしれない。

三井の家族にだって、宮城の家族のような事情や葛藤があったかもしれない。我々は知ることができないけど。

 

宮城にとって三井は兄の面影を感じる存在だけど、ある意味三井は宮城のifとも言える。

ソータというロールモデルのいない宮城リョータ

あるいは、リョータというチームメイトのいなかった宮城ソータ。

誕生日が同じ兄弟の、両方と似ていて、同時に似ていない。

追いかける背中がない。涙を見せて、一緒に頑張ろうと言える相手がいない。

三井の心を最後に折ったのは孤独だ。

三井は不遜で自信過剰に見えて、安西先生の言うとおり知性の男だ。三井は根拠のない自信ではなく、自分が勝利に、チームに必要だということを客観的事実として理解しているから、強固な自信を持っていたんだろう。

そんなやつがチームスポーツをやっているのが面白いところで、人の中にいるのが好きなんだと思う。

そういうあたたかさと、同時に、恐ろしいほどの冷静さ──寂しさを持っていて、その狭間にいるから、人を引きつけるし遠ざけもする。

それは一度傾いたら簡単に飲み込まれる静寂だ。

極めて優秀な自分の知性が、自分はチームに必要ないという結論を出す。

他人に言われたわけでもない。自分の出した答えからは、逃げられない。

バスケから逃げたって、不良になったって、自分自身が自分自身に価値を感じられなくなったという事実は、もう二度と消えてなくならない。

そのうち、そんなふうに感じる自分自身の"知性"にも嫌気が差す。

死にたかっただろうな、ずっと。

 

 

怪我がなければさ、別に、怪我以前にそもそもぶちあたってた壁(赤木というライバル、フィジカルの差)はさ、それなりに苦悩しながらそのうち乗り越えられてたかもしれない。怪我がなければ、喧嘩しながらいいライバルとして、そのうちチームメイトとしての信頼も芽生えて、何かあったとき、赤木や木暮の前で弱音を吐いて泣けるような、そんな関係になって、リハビリに耐えてチームに戻るんだって、あいつらは待っててくれてるって、信じられたのかもしれない。

だから、三井が一番不幸だったのはタイミングだったのかもしれない。

自分の身体の性質も、異変が起こるタイミングも、自分の意志でどうにかなるもんじゃない。

それって絶望だよな。

取り返しがつかないことが、自分の身に起こる、その重さ。

自分が自分の知る自分じゃなくなっていく恐怖。

自分が遠くなっていく恐怖。

周りが遠くなっていく恐怖。

 

リョータは三井とボコボコに殴り合って、事故って、母を泣かせて、兄のいた場所を辿ってようやく泣けたけれど、三井には、そんなふうに自分の孤独を受け止めてくれる秘密基地はおそらくなかったんだろう。

だから、体育館でしか泣けない。

ずっと好きだった、怖かった場所に訪れて、他人をメチャクチャに傷つけて、自分をメチャクチャに傷つけて、それで、物言わぬ安西先生の顔を見たときに、ようやく泣くことができた。

 

兄と違って三井は戻ってきた。リョータの視点ではそうかもしれない。

でも、三井はなぜ戻ってこれたんだろう。

三井はなんで死なずに済んだんだろう。

三井を死なせなかったものの正体はいったい何なんだろう。

それは、かつて三井に出会って、不格好でもバスケを続けていて、結果的に三井を体育館にまで引きずり出した宮城リョータだったのかもしれないし。

孤独に耐えながらずっと体育館にいた赤木だったかもしれないし、三井を忘れなかった木暮だったかもしれないし。

バスケに夢中になり始めた桜木だったかもしれないし、物理的に止めてくれた水戸なのかもしれないし。ずっと見守ってくれた徳男なのかもしれないし。

何も答えをくれなくても、いつか諦めるなと教えてくれた安西先生なのかもしれないし。

諦めたくなかった三井自身なのかも、しれないし。

それは全部三井自身の身に起こったことで。いいことも、悪いことも。

何かひとつかけ違ったら、もっと取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

だから、三井が一番幸運だったのは、タイミングだったのかもしれない。

人の生き死にってやつはだいたいそうだ。

 

 

 

生き延びてからも大変だ。

そうなれていたはずの自分の背中が常に見える。無駄にした時間の重さが、逃げていた自分の弱さが、常に自分自身には見えていて、自分自身の極めて優秀な知性が、自分を責める。

理想の自分が見える。そうなれなかった自分の身体を引きずって生きる。

なあ、でもさ、ここにいるのは今の自分なんだよな。

逃げたのも自分だけど、戻ってきたのも自分で、今、ボールに触っているのは自分で。

そして、今の自分に対してここにいていいと、いてくれと思ってくれる仲間がいるんだ。

三井はもう孤独じゃないんだ。

三井がみっともないやつだってことを、みんなも分かってる。みんな三井の涙を知ってる。

みっともなくて、美しい。三井っていうのはそういうやつだと、三井のシュートを見て、そばにいる彼らも、観客の俺らも思う。

三井自身もだ。こんなにみっともないやつになっちまっても、投げたボールの軌道は変わらずに美しい。指先の感覚が応えてくれる、その瞬間の静寂。

自分自身の投げたボールを見て、彼は何度も、生き返る。

誰が三井を生かしたか。

それはやっぱり三井自身なんじゃないか。

いや、本当のところは分からない。

でも、きっとその自負が、これからの彼を生かす。

 

 

The Fire

The Fire

  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

五稜結人と三井寿のこと/己の主導権を握る

まえおき︰

この記事はふせったーに上げてたナビステ2の感想を含めた五稜結人の話と、同時になぜか考えてしまった三井寿についての文章を多少加筆修正したものです。

fromARGONAVISとスラムダンクの話を並行して展開しているけど、どちらかしか分からない人(どちらも分からない人)もよかったら読んでください。

ナビステ2は3月6日まで配信もあるのでよろしくね。

 

 

年明けに発表された新曲であり、今回の舞台において大きな山となった楽曲の、

「スタートライン」っていうタイトルの意味がよくやく分かった気がした。

 

那由多は、頑張ったことを褒めてほしいならジャイロにはいらない、つまり必要なのは結果である、ということをしきりに口にするけど、 

今回の「目醒めの王者と恒星のプログレス」という舞台において重要なのは、結果が出せるか以前の、頑張ったかどうか、の更に前の、「頑張ることを決められるかどうか」って部分の話なのかなあと思う 。

それってつまり、覚悟ってことなんだけど 。

 

五稜結人は父親から課される人生に違和感を抱いていても、古澤さんに背中を押されるまで、自分が何をしたらいいか分かってなかったし、好きなものがあるとしても自分がそれをしたいのか分からなかった。自分がそれをしていいとは思えなかったから 。

アニメでディスフェスのときに那由多が結人に「いつか上手くなると信じて努力を続けられなかった、自分を信じられなかったからお前はジャイロにふさわしくなかった」という趣旨のことを言う。

旧ジャイロにいたときの結人は、父親の言うことを聞いて言われたとおりに頑張るけど父親の期待する結果は出せていない、でも何をどうしたらいいのか分からない、自分が悪いのか?と燻っている中学時代の結人と同じだったんだと思う 。

違和感を感じてても、結人の側からやめるとは言えなかった。

那由多は正解を知ってて、結人には分からないから 。

那由多からしたら結人のその自我のなさ(自らの判断基準を持たない、それをもとに行動できない、行動の責任をとれない)はそりゃイライラする。

父親に支配されていた過去の那由多の姿でもあるから。

 

そういう、結人の過去のふたつの足踏みの描写が重なってて、 

じゃあ具体的にどうしたら解決できたのかという、ある意味結人のifとしてのジャイロメンバーたちのエピソードが描かれている。

なおかつその足踏みが、今のアルゴナビスの状況と重なっていく。

それで最後に航海が「迷ったままでいい、迷いながら進もう」という結論を出すのが見事だなあと思った。

 

スタートラインから足を踏み出すのに、必ずしも確信や自信は必要はなくて、ある意味、それはただの行動、行為、結果でしかない 。

成功するという確信、成功するという結果ではなくて。 

「やっている」ということ、それがプロになるってことなんじゃないかな。 

自分がそれをできるかどうかって、結局良くも悪くも、やってみないと分かんないし 。

確信がなくても、「やる」、その意志、その決断 。

それが覚悟なんじゃないかな 。

 

『ステージに立ちたいか、立ちたくないか。ふたつにひとつだ』

 

自分の意志で、運命に身を委ねること。

運命の濁流に飲まれないように、その川を泳ぐ。

 

 

ナビステを見てから何故かずっと三井のことを考えていた。

なんていうか、才能があると、ある意味そういう決意や覚悟というものを決めなくても走り出せてしまうし、やるべきことが何かも分かるし、ある程度まで走れてしまうんだよな 。

宮城が兄の背中を目指してずっと意志の力でバスケにしがみついていたのとは対象的で(宮城に限んないけどね) 、三井は誰かに背中を押されなくてもとっくに走っていたし、走るのがうまい。

自分の可能性の上限とか、勝てないやつとか、そういうものに直面しないまま、何も怖くないまま、息するみたいに簡単に、うまくできてしまう。 

息をするようにバスケットマンなので。

 

走るのはうまいのに、転び方を知らないから、転んだら簡単には立ち上がれない。走らなくちゃって思うのに、走りたいって思うのに。立てない。やっと立てても、もう一度走り出すのが怖い。だから逃げた。 

それなのに、何も怖くないみたいにバスケをしていたころの三井を見ていた人たちが、きっとそういう三井みたいになりたくて、転ぶのが怖くてもずっと走っている。 

三井は結局それから目を逸らせない。見たくないのに見てしまう。 

目を逸らせないから消そうとする。 

 

もしかしたら三井は、最初は「うまくできるから」バスケが好きだったのかもしれないのに、それなのに、バスケができないのにまだ、彼はバスケが好きなんだ。 

それはずっとバスケットをしてきたからなんだ。覚悟も決意もなくても、息をするみたいに簡単に──自由に、バスケットをやってた。バスケットをやる三井は自由なんだ。 

三井はきっと楽になりたくて逃げてた。なのに逃げれば逃げるほど苦しかった。 

三井が一番自由になれるのはバスケだから。 

膝が不安でも体力がなくても、それでも。 

 

それってすごく残酷なことだと思う。 

三井はバスケットで一番自由になれるけど、バスケットから自由になれない。バスケットボールに愛されてしまって、バスケットボールを愛してしまったから。 

未熟で幼稚な心が才能という乗り物の残酷さに振り回されて、だけどその才能と愛に根負けしたときに、彼はやっと自分自身の主導権を取り戻すことができた。もしかしたら本当の意味では初めて、自分自身の主導権を握った。 

三井はもう無敵じゃない。怖いことはたくさんある。それでもバスケをやる。怖くても。 

それが覚悟ってことなんじゃないか。 

『ステージに立ちたいか、立ちたくないか。ふたつにひとつだ』 

答えは「バスケがしたいです」だよな。

 

 

youtu.be

ツール、あるいはそれそのもの/『THE FIRST SLAM DUNK』


『THE FIRST SLAM DUNK』を観た。

走って帰った!!!!!!!!!!

スキップで劇場を出て歌舞伎町を駆け抜けて帰った。

 

いや、面白すぎ!?!?!?!?

 

スラムダンクは全然知らなくて、大人になってできたオタク友達はともかく学生時代にまわりで読んでいる人もおらず、インターネットミームになっているやつはまあ多少わかるのとキャラクターの名前を何人かは知っている程度。公開後スラムダンクが好きなフォロワーが絶賛しており、思い入れを抜きにしても映像としてすごいので見てほしいという話をされ、ちょうど出かける予定があったので観たのだが、観る前にちょっとしたことでくさくさしていた気持ちが吹っ飛ばされて「僕らの世界は捨てたもんじゃない!!!!!!」「疑問・愚問・不穏、消えた・・・・・・」になっていた(BLUE ALBUM)。

数時間の映画で出てくる人全員を好きになり、近年感じていたことがいいことも悪いことも昇華され、「この世、おもしれー……」と最高の気分でうちに帰った。

 

まずもってキャラのことを全然知らないから、最初とかまあギリこのシースルー前髪の人は顔と名前が一致するわね。あと主人公の赤い人もかろうじてわかるわね。みたいなテンションで始まり、試合が進みそれぞれのプレーを見て、合間合間に回想が入るたびに
「お前・・・・・・・そうだったのかよ!!!!!!!!」
と彼らのことを知って好きになり、三井の顔と名前が一致したときは「お前・・・・・・"""三井"""か!!!!!!(聞いたことある)」となり、なんか回想で出てきたロン毛のヤンキーが同一人物だと気づいて「お前・・・・・・・"""三井"""か!!!!!!!(そうなのお!?)」となり、もっと前の回想で出てきたさわやかな短髪を思い出して「お前・・・・・・・"""三井"""!?!?!?」となり、三井……なんなんだオメー……知りてえ、三井のこと……。


お話が進むごとにそれぞれのキャラに「こういう子なんだなあ」という理解が生まれていく過程が面白かった。原作漫画があるからこその奥行なんだろうけど、それを短い時間で過剰に説明されることなく理解していくっていうの、あんま味わうことない感覚というか、もちろん優れた映画ってそういうものだとは思うけど、だとしてもここまで大好きになるのはレアなんでね。
でもキャラクターたちが感情移入しやすい性格をしてるかっていうとそうでもないし、りょーちゃん(って呼んでいいのかすらよくわからんが)も割とわかりにくい子というか、小さいころからけっこう、なんていうかどっちかっていうと内気な感じというか、意地っ張りにも見えるけど素直さもあって、ちょっと言動が不可解ですらあって、でもその絶妙にずれている感じが実際にいる人間を見ているようでもあって。本人の認識している自分と周りから見える像の違いとか、実際人間ってめっちゃそうよね……という気持ちにもなり、そういうまだ不確定な輪郭の自我を持て余してる感じが見ていてすごく共感もするし、応援したくなるし、すごくのめり込んでしまった。
回想だけじゃなくてプレースタイルというか、そういう部分が試合が進んで明らかになっていくのとパーソナリティが明らかになっていくのが同時に進行していくから、よりキャラクターに愛着が湧きやすくて、これはもちろん長編の連載の構成としてもそうなのかもしれないが、短い時間でどんどん感情移入して、終盤はもうその愛着をもって固唾をのんで見守る、そこにいる彼らと気持ちがシンクロしていく、あのなんていうの、追いつき方というか、あのチーム、あの試合、あの瞬間に対しての気持ちが完全に追いついてくるという、自分の感情の躍動といったら……。

 

ホビーアニメが好きなんですけど、今年ヴァンガードoverDress及びwillDressを見てすごい好きだったんですけど、スラムダンクを観て帰り道にふと「スポーツって、ホビーなんだな……」ということを思って、まあカードゲームだとかそういうもんが疑似的なスポーツというのはそうなので順番が逆なのかもしれないけど、まあ自分の感覚としてはそれをスポーツの一種と言うというよりは「ホビー」という概念の中にスポーツもゲームも入るのかなっていう感覚でまあそれはいいんですけど
overDressを観たときに「人にとっての、子供たちにとってのホビー」みたいなところについて考えてて、その時思ったことがスラムダンクについて考えててふと浮かんで、ものすごい腑に落ちたというか、そう感じた理由がいくつかあって、
ある一定の側面として、そのホビーに触れる、のめり込む理由は逃避だったりとか、自分の生活・人生とは別の世界を自分の中に持つという行為でもあって、そのためのツールとしての側面があると思うんですね。過酷な環境だとか弱い自分だとか窮屈な世界だとか、そういう不自由な現実をいったん忘れて自由になる、ボールだけを、カードだけを持ったシンプルな自分になれる場所がそこにある。
でも当然その場所でも挫折がある。いつか負ける。あるいは最初から負けてるかもしれない。あるいは勝ち続けるからこその孤独や虚しさかもしれない。どこかで、この場所でも全然自由じゃないってことに気づく。
それを悔しい、苦しいと感じたときに、それじゃ嫌だ、まだここにいたいんだと感じるごとに、そのホビーは逃避のツールから、少しずつそれ自体が目的になっていく。ツールとしてでなく、それそのものを好きになっていく。
そして敗北に本気で悔しいと感じるとき、そこには他者がいる。敵でも味方でも。自分の現実から逃れた世界の中に他者が存在していく。シンプルな世界が複雑になっていく。そうしてその世界は自分が逃れてきた現実と地続きになっていく。
どうしようもなく逃げ出したいのに、もう一度やりたい、もう一度勝ちたいと立ち上がる。
どうしようもない挫折やいらだちにとらわれていても、熱中と、同じくらい熱中する他者とのふれあいで、その瞬間なぜか身軽になる。どうしようもないほどの存在の重さと、駆け出したくなるほどの衝動が、同時に湧き上がっていく。
他者のいる世界で、挫折に向き合い、悔しさを、悲しみを、自分自身に引き受ける。
そうなったときに、逃れてきた現実の方でも、不自由さを受け入れたり、立ち向かう力みたいなものをいつのまにか手にしていたりする。もちろんそこの順番は逆かもしれないしどっちが先かもわからない話でもあるんだけど。
そういう場所、世界を持つっていうことが俺たちを生かしてくれたんじゃないかっていうのを考えてて、それを今回の映画でもすごく思った。
ツールとしてでなく、いつのまにかそのホビーそのものを愛し始めること。同時に、そのホビーによっていつのまにかたくさんのものを手にしているという、ツールとしての完成。その両面がホビーってものにはあって、それをね、この映画はすげー鮮明に描いてると思った。

 

ちょっと違う話かもしれないんだけど、「ツール」と「そのもの」の話でいうと、私は表現手法としてのアニメーションが好きなんだけど、同時にアニメーションそのものが好きでもあるんだな、と思って。
普段アニメに対して文句ばっか言ってるけどやっぱり俺ってアニメってやつが好きなんだなあ……と思ってしみじみ涙が出てきたりした。なんかなあ、やっぱすばらしいもんを見たときにそれがアニメっていう手法で表現されているととてつもなくうれしいんだよな。
これってたぶん今回すごい勢いで感情移入したことにも関係があって、結局私がアニメってもんが好きだから、同じ内容を実写でやるより、絵で描かれている方が、なんか知らんがそこにいる人物たちへの興味を持ちやすいし愛着が生まれやすいんだと思う。
絵っていうだけでうれしいし、絵が動いてるってだけでうれしい。
なんかこういうこと『ロング・ウェイ・ノース』見たときも思った気がする。
好きかもしれねえな、アニメ映画ってやつ・・・・・好きだ・・・・・・

 

すごい好きだったシーンがあって、トンネルのとこなんですけど。
バイク(原付?)で猛スピードで走ってて、トンネルに入って、トンネルを抜けて、っていうシーンがあるじゃないですか。
あそこのさあ、手前の段階では真っ暗に見えていたトンネルが、トンネルの中に入ったらコントラストが変化してトンネルの中が少し見えて、でもすぐに外がめちゃめちゃ明るくて眩しくて視界が開けて景色が見えるっていう、あのシーンがすごい良くて。
なんかあの、トンネルの中がいったん少し明るく見えるっていうディティールがめちゃめちゃ好きで、そんな終盤のシーンでもないけど「俺、今のシーンがたぶん一番好きだ・・・・」って思ったんだけど最後まで見てもやっぱり一番印象に残っていた。
ああいうディティールが映画全体のリアルな感触を作っているんだと思うし、同時に、その視界の変化が彼が歩んだ道そのものを表しているようにも感じるし、お話としてもターニングポイントだから、実際彼にとっても世界が変わる瞬間の景色だったかもしれないし。
ただ暗くなって明るくなるんじゃなくて、一度トンネルの中が明るくなるから、次の瞬間もう外にいてまばゆい景色を叩きつけられるのがね、びっくりするんだよ。
なんかねえそういう……細かい部分の手触りが積み重なっているのが本当にいいんだよな。

あと梶原岳人梶原岳人よかったな・・・・
梶原岳人って本当にああいうアニメっぽくない演技で信じられないほど力を発揮すると思うんですけど冒頭の梶原岳人の芝居が映画全体の抑制されたテンションや優しくてさみしいトーンを作っていて、全体をリードしていてめちゃくちゃよかった。他の人ももちろんよかったけど、梶原岳人のあの手触りはすごいよ・・・

 

あとはまあ試合のシーンの映像としてのすごさとかもちろんあるんだけどそこはもう他の人が言ってると思うし別にそこは私が書かなくてもいいかな。つーかまああれって「理屈ではそうするべきとわかっているものを本当に実現している」っていうすごさというか。でもやろうとしたやつも成し遂げたやつもいなかっただろっていう。ていうか実現可能性は置いておいてそうすべきものだろっていうのすらわかってるのかあやしいやつが多すぎるだろっていうかこれ以上は恨み言になるのでやめますけど
しかもなんかそれが別にくどくないんだよな、ダラダラ動かしやがってっていう感じが全然なくて、試合中だからそりゃ動いてるよなあとも思うし、でも止まっているシーンとかゆったり動くシーンはちゃんと止まって見えるんだよ。ていうかそこもまあ芝居の良さなんだよ。ただ動いてりゃいいってもんじゃないんですよ。ちょっとした動きでも着てる服の布がちゃんと動いててすごいんだけどそれが悪目立ちしてないのも良かったな。
あとCGっぽさとか色味の感じとかも単体だとちょっとどうだろう?って感じなのに映像としては全然違和感がなくて、むしろ「ずっと同じ場所、同じ照明の中」っていう臨場感すら作ってて、パッと見そんなにかっこよくないんだけど、それがむしろ素人のカメラで撮ったみたいな、その場で見ているみたいな臨場感でね、良かった。これで色味とかもバチバチかっこいいとちょっとくどいのかもしれない。というかそれはそれでいいのかもしれないけどこの映画にとってはこのトーンが合っていると思う。
テンポ感もマジで自分が理想としているもので、試合中もほかのシーンもあー俺の思う「アニメ」ってこうなんだよ・・・このリズムなんだよ・・・というのが味わえて幸せすぎたね。原作買ったんでね、この感覚の人の描いた漫画読むの楽しみだな。

試合でいうと、けっこう始めの方の段階で「バスケって・・・・・HIP HOP 了解!」と心で理解したのも面白かった。いやまあバスケのこともHIP HOPのことも詳しくないしバスケというかスラムダンクが…なのかもしれないけど、スポーツとして見るとちょっとガラが悪くないですか?みたいな威圧だったり自分を誇示するような振る舞いを「なるほどそういうノリね」と理解して、最終的にその「自分を強く見せる」っていうのがちゃんと本筋に繋がってて、もうね、本当によくできてるし面白すぎるだろ……なんなんだよ……スラムダンク…………はやくもっとみんなのこと知って友達になりてー!!

あと山が何回もありつつラストに向かってどんどんボルテージが上がって最高潮に達する感じはけっこうライブを見ている感覚に近かったかもしれない!

 

俺の話は聞かなくていいからArgonavisのCYANを聴いてくれ

5月に書いてたが出すタイミングを逃したのでなんか恥ずかしくてお蔵入りしていたCYANの激重感想文だぜ!!

 

というわけで話をさせてください。Argonavisの2ndアルバム『CYAN』の話をさせてください。

 

youtube.com

 

 

なんならファーストアルバムから聴いてほしい。

youtube.com

 

 

まあ、まず、暇な人はとりあえず聴いてみてほしいんですよ。このCYANってぇアルバムはやばいんですよ。オレはプロジェクトで一番好きなバンドはGYROAXIAなんだが、もうそういう何が推しとかって問題ではない。なぜならこのアルバムはなんかもうコンテンツのバンドのアルバムとかそういうんじゃない、バンドのアルバムとしての完成度が高すぎてアルゴナビスのオタクであるにもかかわらず何も知らずにいちバンドとして出会って曲を聴いてえ〜いいじゃん…って思ったときの存在しない記憶が発生している。その点においてコンテンツのことを何も知らない人にこそ聴いてみてほしい。というかこんな話を聞かずに本当にとりあえず聴いてこんな記事のことは忘れてほしい。

なんだけど、なんだけどその上で、このアルバムはArgonavisというバンドの、fromARGONAVISというコンテンツの、株式会社アルゴナビスという会社の、一世一代の覚悟と、それを選ぶ恐怖と、バンドで音楽をやる喜びが全部詰まってるんですよ。それが伝わってくるんですよ。

どういうことかっていうと、何も知らない人に向けて説明すると、アルゴナビスっつーのは音楽、アニメ、ゲーム、ライブ等々で展開してバンドをやる男の子たちを描くっていうコンテンツで、元はブシロード屋さんのバンドリ先輩にお名前借りて、その男子版として始めたんですね。まあ全然世界観は繋がってないんでノウハウだけ借りてるって感じなんですけど、ライブやってアニメやってゲームやってってどんどん展開してきたんですね。

 

で、そのアプリゲームが一年でサ終したんですね。

 

だもんだからオレは初対面の人とかに「今はアルゴナビスにハマってます〜♪」って自己紹介すると

「あっ……お疲れ様です。ご愁傷さまです」

みたいなお気遣いをいただくんですね。ところがそれを言われたオレは

「えっ何が?」

になるわけなんですよ。

 

サ終……………………………………そんなんあったな。

 

今が楽しすぎて忘れていた。

 

いや、もちろんサ終はメチャクチャ悲しかった。

そもそもサ終が発表された日がArgonavisの函館凱旋ワンマンライブの前日で、オレは現地には行けないものの友達とホテルに泊まりに来てライブ前に優雅なひとときを過ごす予定だった……ウキウキでチェックインしてしかも空いてたからとスイートに通されてオレたちは非常にはしゃいだ……そして……そのことをツイートしようとツイッターを開き……………オレたちはサ終のお知らせを見た……………

そして………………………スイートルームで通夜になり数十分後…………………

 

「株式会社アルゴナビスを設立します」

 

 

全然意味が分からなかった

 

いや未だにかなりよくわからないが、とにかくコンテンツが終わるわけではないようだった。

オレたちはあまりの意味の分からなさに爆笑し、しかし混乱と不安と少しの希望を抱えたままワンマンライブを迎えた。

そしてライブ後にプロデューサー、もとい、株式会社アルゴナビスの社長に就任するとかいうなんかキャストよりよっぽどバンドマンみてえな感じのお兄さんが登壇し、オレたちにこれからのことを説明した……

 

社長「株式会社アルゴナビスを設立します。アルゴナビスは終わりません。ライブも曲のリリースもグッズ展開もあるし、次のアプリ作り始めてます。

あと1月2日に全バンド集まるライブやります」

 

オレたちはあまりの意味の分からなさに爆笑し、「おもしれー会社…………」が局地的流行語になった。

 

それ以来というものの、株式会社アルゴナビスが何かするたびにオレは混乱と爆笑とともについてきた。

「このプロジェクトがどこまでいけるのか見たい」

キャラクターコンテンツとして、音楽コンテンツとして、バンドとしてどこまでいけるのか。この世界でどれだけ戦えるのか。どれだけの人々にそれを届けられるのか。

それを見たい。

フィクションにもう依頼心は持たないと絶望していたオレが、何気なく始めたゲームのキャラクターやストーリーへの関心だけでなくこのコンテンツに惚れ込んだのは、ライブで「こんなに全員が本気でいいものをつくろうとしてる場所がこの世界にはまだあるんだ」と思ったからだった。

2021年3月、CROSSINGで、里塚賢汰が旭那由多に出会ったときのような、衝撃と可能性を感じた。

それからたくさんライブや楽曲やストーリーを見てきた。期待が外れたことはなかった。常にこちらの予想を超えていいものを届けてくれた。

2022年5月、DIVE into CYANで、七星蓮がArgonavisで感じたように、ここには自分の居場所があると感じた。

ライブのたびに、自分がもう以前の自分じゃないと気づいた。

人生が楽しかった。もしかしたら今までで一番。

 

 

順風満帆ではなかったアルゴナビス。バンドとしても、 プロジェクトとしても。

本格始動した矢先に、COVID-19でライブができなくなって、ライブを再開してからも、ずっと制限下でやってきた。配信ライブもやった。アプリのことを抜きにしたって、採算なんてとれるわけない。それでも、「バンド」をやりたいコンテンツだから、ライブを続けてくれた。見るたびに本当のバンドになっていくのを感じた。「バンド」を本当に作りたくて、全員が本気なんだってことを、出会ってから大した期間じゃないけど、すごく長く感じるくらい、見てきた。

2022年1月、5バンドが全員揃って演奏して、本当に嬉しかった。

見れなかったかもしれない光景。もう見ることができないと、一度は本気で思った光景。

でもそれは最後の夢じゃなくて、ライブタイトルの通り、『始動』だった。

 

 

そんな歩みが全部詰まったアルバムがこの『CYAN』というアルバムなわけですよ。

ええ、ようやくアルバムの話です。いや、本当にね、こんな過程なんてすっ飛ばして聴いてもらっていいというかむしろ何も知らずにアルバムを聴いてほしい。じゃあなんで書いたんだ?テンション上がっちゃって……。

 

というわけでここからがようやくCYANの感想です。

さっきまでの文章のとっ散らかり具合や感情の重さなんて序の口だってことを見せてやりますよ。Freestyleな感想兼自分語りでも楽しく読める人は読んでね。

 

 

 

1. きっと僕らは

youtu.be

2021年11月に公開された劇場版『流星のオブリガート』の主題歌。TVアニメの内容を再構成したいわゆる総集編映画だったが、舞台版(後述)と同じくこの曲を通してアニメのストーリーを振り返るような内容。

Argonavisにとってはおなじみユニゾン田淵提供曲で、TVアニメOP『星がはじまる』の正統進化版という感じ。Argonavisの爽やかでキラキラして少し不思議な雰囲気が詰まった、「僕達がArgonavisです!」という自己紹介のような曲。とはいってもセカンドアルバムなんで、ファーストアルバム(TVアニメ使用楽曲が主)の「Argonavisでこういうことをしたい!」という初期衝動を、改めて立ち止まって振り返った上でさらに踏み出したような、劇場版の主題歌にぴったりの曲。

多幸感……本当に多幸感がすごい。劇場版のOP映像もよかったし……

でもこのアルバムにおいては少し意味が変わってくるっていうか、TVアニメのストーリー時点での船出の曲としての多幸感だったのが、このアルバムにおいてはまず1曲目としての『きっと僕らは』であり、そして、13曲目でもあるように感じて、あの函館でのきっと僕らは、劇場版主題歌のきっと僕らは、アルバム1曲目のきっと僕らは、アルバム13曲目のきっと僕らは、それが全部違って聴こえる。それが全部違って聴こえる理由が、このアルバムに詰まっている。

 

2.可能性

youtu.be

アニメ『ぼくたちのリメイク』のED。

こないだの番組で「可能性からArgonavis、グッと変わったよねえ」という話をしていたと思うが、本当にそうで、このあたりからなんていうかArgonavisの曲が自分ごととしてすごく響くようになってきたのをなんとなく覚えてる。オレはいつも苦しんでいるがぼくリメを見ていたときもいかんせん仕事が近いもんでアギャギャギャギャ……となっていたし嫌な記憶を振り返ったりしてしまって、まあぼくリメという作品の内容もなんだけどぼくリメとアルゴナビスのテーマ性みたいなものが重なっていて、その部分がすごく自分に刺さったし、それまでジャイロやイプシとかと違ってどちらかというとArgonavisの曲はそんなに感情移入していなかったのに、この曲からArgonavisとオレの距離がグッと縮んだ感じがあった。し、苦しむオレに刺さったということは今のArgonavisひいてはアルゴナビスのもがいている現状にとても響いてくるってことだ。

 

3. Anthem

youtu.be

舞台版、通称ナビステの曲。

TVアニメのストーリーを1本の舞台にまとめていて、劇場版の『流星のオブリガート』と概ね内容は同じなのだが、ナビステは本当にうまくまとまっていてさらに舞台としての魅力もすごかったし演奏も素晴らしかったので、アルゴナビス入門としてはナビステがかなりオススメです。

ナビステを見たときの呆然とした「なんかとんでもねえすげーもんを見た…」という気持ちも思い出して、アルゴナビスというプロジェクトの凄みというものを振り返れる曲でもある。

『きっと僕らは』と似た立ち位置でありながら、あちらが多幸感に溢れるのに対してこちらはもう少しギラついた感じというか、泥臭さを感じさせる。虹がかかる中、水たまりの泥が跳ねるのを気にせず駆け出すかのような。『きっと僕らは』が少し俯瞰の視点のArgonavisだとするとこっちはもうすこし一人称寄りの感じ。

キラキラした感じとは裏腹の泥臭さもArgonavisの特徴というか、同じく泥臭さや力強さを感じる『JUNCTION』と曲順としては対称というのもまたいい。

 

4.心を歌いたい

youtu.be

イトマサ(※ボーカル)の友達の人ことセンチミリメンタル温詞くんの楽曲提供。5月6日のワンマンライブ前日に出されたボイスドラマの中で登場した曲で、ライブでもトリ曲だった(アンコール除く)。

ボイスドラマで流れてきたときは本当に鳥肌が立った。まずボイスドラマにEDが流れるってなんだよ。これからどうしようか悩んでいるArgonavisとアルゴナビスの気持ちが本当にストレートに反映されてて、ボイスドラマのストーリー、ライブのストーリー、プロジェクトの辿った道や置かれてる状況をここまでうまく繋げて昇華してるのがすごい。

この曲のAメロの七星/イトマサの歌い方が大好きなんだが、特に2Aの「冷めないまま 夢抱いてく 思ってたより 難しいよな」という部分が歌詞もたまらなく好き。ほんとだよな、難しいよな…ここの後ろで鳴ってるピアノも好きなんだ…

「伝えたいよ」のところはライブでも感情がメチャクチャになってしまったし、音源でも何度聴いてもグッとくる。七星/イトマサの歌声の圧倒的なパワーを一番ストレートに感じる、単体でも非常にパワーのある曲。

アルバムの構成としては、等身大の泥臭さのある『Anthem』からこの曲でグッとArgonavisというバンド及びメンバーの内面にカメラが近づいて、まだピントが合わないままいろんなことを抱えて考えて感じているのが見える。

 

5. 僕の日々にいつもいてよ

youtu.be

同じく温詞くん曲。アコースティックツアーで披露されてからとても好きで楽しみだった曲。

曲調としても歌詞としても歌唱としても、この曲からArgonavisというバンドの質感がいっそうリアルになっていく感じがある。温詞くんらしさがすごくうまくハマってArgonavisの実在感を作った感じ。

全体的に七星/イトマサの歌い方がメチャクチャ好き。歌詞とメロディのリズムの感じがとても好みで、コンテンツの曲として出会ってなくても絶対にメチャクチャ好きになっただろう曲のひとつ。

ラブソングだけど、ラブの範囲が広くとれて、もうなんならオレからアルゴナビスへのラブのイメソンかな?となる。でもラブソングって部分以外も、すごく共感できる日々の不安や凝り固まった自己防衛が大切な相手に出会って溶けてく感じとか、本当に身に覚えがある。やっぱりオレとアルゴナビスの歌じゃん……君が好きだよ……

 

6. Y

youtu.be

既にメチャクチャ好きなのに聴くたびに「こんなにいい曲だったっけ…!?」となる異常な曲。ヴァンガードのED。

切ないラブソングっぽい歌詞と軽やかで澄んだ曲調のマリアージュが何度聴いてももっと好きになるし、喉越しの良さの割に苦さが残るところもArgonavis/アルゴナビスらしい。JUNCTION(野外ライブ)のときの航海くんのことを思い出して兄さん…ってなる曲でもある。

これもやっぱりオレ→アルゴナビスの曲では?「移ろう季節の中で 居場所を作ってくれた」って本当にそうだよ。たくさんの幸せを教えてくれたよ……現在進行系だよ……

しかしまあArgonavisにしてはそんなに特別特徴がない曲だと思うんだけど好きな曲としては上位に来るので、逆に面白い曲だな…と思う。TAKEさんはやっぱすげえよ。

『僕の日々にいつもいてよ』と続いて、Argonavisの歌の世界観を作っている航海の感覚で見えている世界にどんどん近づいていく感じ。

 

7. 迷い星

youtu.be

中村航先生による星空パレード(オレがメチャクチャになった兄弟イベント)へのアンサーソング?????

曲調としては切ないJ-POPっぽい感じだけど細かい音が兄弟の幼少期を自然とイメージさせるような、絵本のような世界観の雰囲気も感じさせる。ホントに丘の上で星を見上げてるみたいで、鉛筆のタッチで描かれた幼少期の兄弟の映像が浮かぶんだよな。

なんかマジでこの曲はびっくりしちゃった。的場航海、お前そんなにか。って思ってちょっとアルバムから浮かないか?と一瞬考えたが、でも航海の兄さんへの気持ちとか兄さんが航海に与えたものっていうのは星空パレードのストーリーから分かるようにこのArgonavisってバンドの根幹ではあるんだよな、って思うとむしろArgonavisの内面に迫っていったときに作詞担当である航海からこれが出てくるのは当然なのかもしれない。航海から兄さんへの気持ちのようでいて、兄さん自身の旅のことを歌っているように感じる部分もあって、本当に航海の詞は恐ろしいよ…。

 

8. BLUE ALBUM

youtu.be

大好きすぎる。Argonavisの曲で一番好きなギフトに迫る勢いで好き。この曲を最初に聴いたとき本当に泣きすぎて動けなくなった。次の曲にいけなくて一旦休憩挟んだ。

歌詞の全部が分かるんだよな。最近自分が感じていたことが全部書いてあるみたいで……それがこんな明るい曲にのせて歌われてて、最近感じていたハッピーな気持ちが本当にそのまま歌になってるみたいだった。

特に好きなのは「失ってばかりと思っていた うまくいかない旅路で 大切な宝物 僕は手にしていた」のところ。あと、「欠片」を「ダイヤモンド」って読むところ。ここの歌声も大好き。

これが万浬くんをフィーチャーした曲だっていうのもまた良い……万浬くんの「みんなのこと好きになってきちゃった」が大好きだし、私も万浬くんのこと、アルゴナビスのこと、大好きになっちゃったからな……白石農場でめっちゃハッピーなMVを撮るところを想像しちゃうな……

この曲はなんていうか、『僕の日々にいつもいてよ』とは別の方向性ですごくリアルなバンドっぽさを感じた。なんだろうな……こういう、曲調としてはハッピーなんだけど歌詞のポジティブさの重みがリアルに感じられる曲ってメチャクチャ好きなんだよな……ナビバでシュガーソングとビターステップのカバーを聴いたときもそんな感じのことを思ったけど、ちょっと曲のテイストとしては近いかもしれない。

『迷い星』で内面に迫っていってその中心から見上げた夜空を捉えてから、広い青空と続く地平にカメラが時間ごと移る感じ。

 

9. Reversal

youtu.be

ライブで聴いてすぐ惚れた曲!!!!!!

本当にかっこいい。JUNCTIONもだけど、Argonavisがこういう曲やるのめっちゃ好き。

イントロのギターが好きすぎてライブのアーカイブずっとこの曲のところ見てて最終的に耳コピチャレンジしていた…

七星と凛生のツインボーカルで、凛生/森嶋さんの歌声がアルバム全体の中でいいアクセントになっててそこもすごく好き。アスタリスクのカバーで凛生の低音ラップ大好きだったからオリジナルでこんなかっこよくやってくれたのもメチャクチャうれしい。低音だけでなくサビの張り上げるところもよくて、結人/ひゅーすけとはまた違う形で七星/イトマサとの声の相性がすごく良い。

サビの「溺れていたいよ でも抜け出たいよ」が歌詞も歌声も本当に好き。

「くたびれ果てた情熱を引きずり出せ!」

そうなんだよな。アルゴナビスプロジェクトの歌たちってそれをしてくれるんだよ。

いい意味でアニソンっぽいというか、タイアップっぽさがある。「少年」が主人公になってる客観視点の曲でカメラが引くんだけど、テンションとしては熱くてそのギャップがすごく凛生っぽい。作曲担当なだけあって、自分が直接モチーフになるというよりは、むしろカメラマンとしての熱さというか、航海の主観と凛生の客観が交互に逆転(まさに!)しあっている印象で、二人の関係や凛生と蓮の共鳴が見える。

 

10. JUNCTION

youtu.be

カメラが世界の過酷な広さに向き、敵としての他者が登場する。

と言っても、結人は他者を通して自分の内面がようやく確立できるタイプだから、結人の戦いの相手は他者でありつつ自分に向いていく。それに直接手を出すというより戦えるフィールドを整えていくような航海の歌詞、凛生の曲、万浬の力強いドラムと、歌声を重ねて背中を支える七星という構図が見える。

書き下ろし曲が続いた流れからリリース順としては前に遡ってくるが、ダブエスのイベント及び野外ライブのときは主に結人の曲だったのが、このアルバムにおいてはある意味全員が結人と同じように他者/外界に晒されていく立場に立たされていく流れを表現しているようなポジション。

結人のハモリがメチャクチャ好き。この曲だととくに色っぽいんだよね。

『Reversal』の凛生の歌で新鮮味を感じたあとに、蓮と結人が全力で闘志の燃える歌声を重ねるという流れがすげー良い。

 

11. リスタート

youtu.be

ここでグッとトーンを落として、リリース時期としても更に遡り、炎を燃やしたあとにスッと静かになり雪景色を回顧するような大胆なカメラの切り替えが良い。

「好きな曲の途中でもう 次の電車やってくるんだ この街じゃさ」という歌詞が何度聴いても秀逸すぎて、分かってるのにふと泣いてしまう瞬間がある。

あと、アコースティックツアーで散々聴いたからこそバンドでのリスタートがメチャクチャじーんとする。

函館ワンマンでのリスタートは、サ終発表と株式会社化の詳細がわからない中でのリスタートで、こちらに希望を抱かせてくれるため、彼らが希望を抱くためのリスタートだったな、と思うんだけど、このアルバムでもう一度聴くリスタートは、彼ら自身が本当に「リスタート」して、歩き始めたからこその覚悟とか、ままならなさとか、今何を語りたいのかがより迫って感じられる。

でも「自分らしさは選べないからさ 僕らはありのままでいい」「白く染まらない東京で僕らのまま輝けるように歌う」って言葉が、今までの失敗とか後悔とか全部ひっくるめて、自分自身であることを肯定しているようで、改めてグッとくるし、その部分が次の曲に繋がっていくのがまた良い。

 

12. 命のクリック

youtu.be

なんかもうArgonavisの歌としても、自分のための歌としても、アルゴナビスプロジェクトを作ってる人たちの歌としても聴こえて、なんか結局オレたちは同じものを見ているのかもしれないよな。

「終わらせようとしてたのは僕らの方」って言葉が、何かがかけ違っていたら、何かがひとつ足りなかったら、このプロジェクトは本当に終わってたんだな、っていうことを改めて突きつけてくる。でも、「まだ終わっちゃいない」とページを増やしてきた、それはプロジェクトスタッフ自身であり、キャストであり、キャラクター自身であり、物語自身であり、もしかしたらオレたちファンが増やしてきたページなのかもしれないと思った。

自分だけの物語は簡単に閉じれても、読者がいるとそうはならない。そうはできない。

だからライブでこの曲を聴いたとき、一番強く思ったのは「これは私が望んだことなんだ」ということだった。つまり私が選んだことなんだ。我々ひとりひとりの意志で選んで、この物語はまだ続いているんだ。

オレが要請したんだから、オレはこの物語に責任がある。同時に、この物語を続けて、それを見届けてくれと望んだアルゴナビスにも、オレたちへの責任がある。私がDIVE into CYANで感じた「居場所」っていうのは、たぶんその責任こそが作っていた。

 

TVアニメの、凛生の加入する回で、凛生が加入をやめようとして「君たちに迷惑はかけられない」と言ったとき、蓮くんは「迷惑かけたって、かまわないと思う」と返した。

あのシーンがすごく好きだった。アプリから入ってTVアニメを見る頃には、もうとっくにアルゴナビスプロジェクトのことを好きになっていたし、キャラクターにも物語にも曲にも魅力を感じていた。けど、アルゴナビスという作品を本当に好きになったのはその台詞を聞いたときだと思う。この物語を信じてもいいと確信したのはそのときだった。

迷惑かけない範疇でなら自由が許される、じゃない。本気でやるなら、きっと迷惑はかける。けど、それに最大限誠意を尽くして、責任を取る。お互いに。Argonavisはそういうバンドで、もしかしたら他のバンドも根本的にそれは変わらなくて。

たぶん私はずっとそういうことがしたかった。それがなりたかった自分だった。

でも、「辿り着いた今日が望んでた色じゃなくても それを綺麗だと思う人がちゃんと見てる」っていう、『命のクリック』の歌詞を聴いて、なんだろうなあ。腑に落ちたような……背中の貼り紙を指摘されたような……どうにも見つからなかった探し物が、不意に出てきたような気持ちになった。

最近何度も感じてたことだった。

自分のことが大嫌いで、自信がなくて、みんな私を嫌いになるだろうと思ってて、人を信じられなくて、なりたい自分がとてつもなく遠くて、なりたかった自分がとてつもなく遠くて、自分にはなんにもない、なんにもできない、なんにもなれないってずっと思ってた。

でもそんなことなかった。

熱に浮かされて、アルゴナビスを、ジャイロを、ファントムを、フウライを、イプシを、みんなを好きになって、いつのまにか、怖かったことができるようになって、いろんな人に出会って、みんなを好きになって、私を好きになってくれる人もいて、好きな人の言葉を受け取れるようになって、気がついたら、たくさん呪いが解けていた。

ナビバで紫夕くんを見て思った。

「楽しかったね。きっとこれからもっと楽しくなるよ」

「つらかったね、今まで」

「きっとこれから楽しい日が増えてくよ」

紫夕くんに対してそう思ったとき、大嫌いだった自分に対しても、素直にそう思うことができた。

夜会でフェリさんが言ってくれた。

「変わりたいと願うすべての者の味方だ」

 

 

「弱い僕達の歌を聴いてください」

DIVE into CYANで言っていた、蓮くんの言葉。

一緒に、少しずつ、もがいて歩いてきた、弱い自分とアルゴナビス。

思い描いてた人生じゃなかったし、アルゴナビスも、思い描いてたプロジェクトの進み方ではなかったんだろう。

けど、アルゴナビスの、Argonavisのその姿を見てオレは、俺は、私は、綺麗だと思う。

Argonavisは、この消えない苦しみを「本気で生きてる証だ」と言ってくれる。

 

この物語を何も知らない人にも、この音楽が届いてほしいと思う。

本当に聴いてほしい。こんなにいいバンドがここにいます!ってたくさんの人に言いたい。それで誰かが少しでも楽しいなとか、何かを思ってくれるといい。ここで語ったこと全部抜きにして、最高のアルバムだと思うから。

でも、自分にとっては、アルゴナビスがアルゴナビスで、俺が私だったから、だからこそ、このアルバムが本当に本当に本当に大事なものになった。

あのとき、もう何もかも嫌になっていたあの頃、友達の言葉にのせられて興味を持ってなかったら、知らないままだった。

アルゴナビスがバンドじゃなかったら、本当に演奏してライブをしてなかったら、ライブに行こうとは思わなかった。

一人じゃずっと自分を、世界を呪ったままだった。

アルゴナビスが好き。本当にありがとう。

ずっと大好きでいたい。できるだけ長く。

この誠意に、本気に応えたい。

彼らに応えてくれる世界であってほしい。

彼らに応えてくれる世界にしたい。

 

オレは…………………………………やるぜ。

何からすればいいかは分からんけどな。

でも何もできないわけじゃないらしいから。

 

弱い僕らだけど、優しさや強さを、一つずつ音符に、言葉に、歌声に。

そういう風にやっぱり生きたいんだよ、俺は。

これからも人生は続く!